Bonjour

菜公坑山の初夏

菜公坑
陽明山国立公園に聳える菜公坑山は大屯山主峰の北から伸
びる支稜の上にあり、外観から望むと鐘状火山の形態に属
し、西側の百拉卡山と 合わせて「枕頭山」とも呼ばれて
おり、この二つ低山は大屯火山の側火山(寄生火山)とし
て知られる。
菜公坑15
標高887mの菜公坑山は別名が「草凹山」といい、山頂で
は巨岩が屹立し、圧倒感を持って迫って来る。この巨岩は
磁鉄鉱を多く含有し、コンパ スを乱す能力あるため、
「反経石」とも命名された。
菜公坑2
石の敷かれた歩道を歩いて行くと階段状の山道が続く、全
長約1.5km、高低差が僅か73 メートルで、一周巡る歩行
時間は約50分となっている。
菜公坑4
雑木、雑草と潅木が茂り、すれ違い人もなく、聞こえるの
は落葉を踏み音と鳥のさえずりだけで、何やらとても落ち
着いた気分になる。
菜公坑6
苔むした地面に投影される木漏れ日は光の闇の中に輝き出
して命の源が生きている実感を与えてくれる。
菜公坑19
沿路の景色は清々しく風光明媚で、ゆっくりと歩を進めて
行けば見晴らし抜群。
菜公坑9
重畳と連なる小観音山と竹子山は長い稜線を延ばし、雄々
しくて気品が眺望できる。
野當歸
四月も終わるごろ、菜公坑山にもかすかす夏の気配が漂い
始めた。
野當歸4
青春の息吹きと歓声に満ちる初夏の森林の中には、四季
を彩る光と色が織り成す非現実的なものが宿っているよ
う、時には花火大会の一幕が眼前に現出し、見の者を驚か
せる。
野當歸2
小さな白い花がたくさん咲く「野当帰」は立体的な花火の
ように、空中を同心円状に広がり、幻想的な美景が格別
の魅力を持っている。
菜公坑21
知らぬ間に過ぎ、約1時間弱をかけて全行1.5㌔を踏破した。

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初秋の大屯山

大屯
大屯山は昔に「大豚山」と呼ばれて、竹子湖側から眺めると
巨大な豚の形をしている由来に名つけられた。北南に長い稜
線を延ばした大屯山がもの凄い、圧倒感を持って迫って来る、
標高1000㍍を超える巨大な山脈が背脊のように走っている。
厳しい冬には大陸から寒流の影響で寒冷、山頂では氷点下10℃
を記録したこともあり、幻想的な雪国になる。日本統治時代に
は「北淡八景の大屯瑞雪」として広く知られていた。
大屯1
大屯山の形成については、放射性同位元素の殘存比から求める
資料によると、今から320萬年~280萬の前後に大屯山の東辺に
ある山丘(丁朽火山)が火山ガス噴出で始まり、しだいに多量
の溶岩を流出したり、ガス爆發を伴う破碎物質を放出したりし
ながら、溶岩の流出が衰えそれまで火口をはいあがってきてい
た溶岩はむしろ冷卻して地下へ收縮するようになって、今日見
る大屯諸峰の雛型も形成されたのだる。
大屯2
陽明山バスターミナルから108番号マイクロバスに乗り、鞍部の
気象所で下車、二子坪方向に進むへの石造舗装路をたどる。五
分間徒歩し、登山口の小さいな標がある、奥へ進むと長い階段
状の山道を踏みしめる
大屯3
山道は矢竹の常緑樹林帯に囲まれ、見晴らしは全くない。
大屯4
天に昇る緩斜面の階段を一息登っていくと雰囲気の良いススキ
草原が広がって、見渡す限りの緑せいか、何やらとても落ち着
いた気分になる
大屯5
旧暦八月十五日の中秋節を過ぎたごろより大屯山の山々ではス
スキが穂を出し始める
大屯6
山頂まではまだ急坂が続いているから、じりじりと足を運ぶ。
登山口から歩き出して20分、滝のような汗が流れながら、展望
台のような休み場に到着した
大屯7
季節の移ろいの中で道端に出会った身近な植物-キク科のツワ
ブキ(石蕗)。
大屯9
山頂まで車道と展望台が整備され、訪れる人を迎え入れている。
気ままに自由に風に吹かれながら、パノラマ大展望を楽しめる。
大屯8
都会の街では、まだまだ厳しい残暑の日々が続いているが、大
屯山の山頂に拡がる草原では、黄金色に輝く穂のススキが一面
に広がり、流れる爽やかな風で波打つ様は、早くも秋の訪れを
感じさせる。
大屯11
大屯山主峰は様々な表情を持っているが、晴れよし、雲よし、
風雨雪よし、ススキもまたよし、いつもどこからの眺めも素晴
らしい。
大屯12
辛うじて辿り着いた山頂で、眼下に広がる関渡平原を眺めると
その淡水河の流れ、風に揺れるススキ、群青の空、輝く雲、果
たしてなく広がる緑などすべて何とも言えなかった。
大屯13
標高1080mの大屯山の山頂に立つと台北盆地の山地を除く台北
境内の半分が見渡せるという
大屯14
高山の清澄な美しさが人々の心に染みとおり、清楚で詩情に満
ちている
大屯15
訪れる人は多くても、原始の息吹きを残す山道。
大屯16
ここから大屯南峰への岐路に取り付く、迷いやすいので要注意
大屯17
百年大杉の森に囲まれ、広大な草原が広がる大屯坪の四角亭は
わびしい雰囲気が周辺を包み込んでいる
大屯18
秋の日を浴びて揺れる紅葉が一層秋の情緒を引き立ててくれる
大屯19
風光明媚な二子坪公園は山泉の水を引いた人工湖を造り、四季
を彩る花々や野草、ひっそり暮らす愛らしい鳥獣や虫たち、鬱
葱と繁る森林などの自然が描く景色を満喫できる都会の喧騒を
忘れさせる気持ちいい場所である
大屯21
二子坪の森林歩道は「蝶々の歩道」とも呼ばれているが、大屯
山の麓に生息する多彩多様な蝶類が毎年の5月から6月末までに
かけては圧倒的な数量で林間や山を駆けめぐりる風景が背筋を
突き抜ける感動、魅了してやましい。その中で「アザキマダラ
蝶」という謎のような蝶は大屯山の上空に流れるジェート気流
に乗って日本の九州に渡来し、最も遠くの距離は本州の長野県
にやって来た記録がある。
大屯22
二子坪公園と大屯自然公園は交通、観光などの施設の整ってい
て、市内から気軽に日帰りできることで多くの家族連れや行楽
者を集め、首都圏の奥座敷の役割を果たしている。ここから小
観音山の旧火口を正面に眺めて風景がよく、穏やかな高原状が
どこまでも続く女性的な山容になっている。
大屯24
二子坪の駐車場にある隅では、道路開通記念碑がわびしく風雨
にさらされ、立っており、静寂に包まれる自然との一体感が深
まっていくようにしている。夏の喧騒が去ると一時、秋の気配
が漂い始めた。この爽やかなトレキンクコースは少し長いが、
雲上のススキ草原と山々の景観は一日忘れ得ぬ山旅となるだろう。


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能高越嶺古道の旅2(東段)

能高越嶺29
2010年8月16日の朝五時ごろ。太陽が地平線の雲から赤光の帯を
空に染めて始まった。
能高越嶺31
能高山主峰と卡賀爾山(カホル)が厳粛、靜寂とも言える雰囲
気の中で朝日の光を待っていた。
能高越嶺30
遠くの清境農場は眠りの大地、美しい薄明の山村。風のない穏
やかな放射冷却の夜が明けた、薄霧の立ちこめる朝。
能高越嶺31a
おごそかな光のなかで朝が生まれる。日の光芒が時間によって
刻々と山々の顔を変えていく、空気がリンとして引き締まった
透明感。胎動する生命が解き放たれる予感に包まれた時間と空間。
能高越嶺33A
朝日が射しこむ瞬間、光の矢が倍に広がって映し出された雄大な
景色には心奪われた
能高越嶺28
自然林の風情が実にしっとりと落ち着いて美しい。どこまでも澄
みきった青空を背景にして山並みが木立越しに丸見えだ。
能高越嶺32
天空からの輝やしい光を浴びて、新緑の色が山々を満たすのを見
つめるとき、私はこの空の下に立ち、この山の上にたつ身の幸い
を覚えないわけに行かなかった。山頂の空気は一種ふしぎな淨ら
かなものからできていた。それを吸い込むと下界の慌だしさはこ
の身から失われた
能高越嶺34
ここから眺める陽が輝き雄大な山容の深堀山は迫力、威圧感があ
る。1897年1月18日、に臺灣總督府軍務局陸軍部課員の深崛大尉
(本名は深崛安一郎)が中央山脈横断道路の建設するため、埔里
を出発として奥山へ進み、沿路実地踏査をしたが、2月14日、こ
の付近に住んだタイヤ族人は敵とみなし、一行15人が次々に殺害
、遭難した。当時の臺灣總督府が深堀の殉職と功労を表彰するた
め、この山を深堀山と名づけた。
能高越嶺35
風雪に耐え、凛々しく山並みに浮かぶ鉄塔群と青い空に流れるよう
な黒い直線を描く送電線」は、まるで風景画のように見えると思う
が、鉄塔群の造形美と機能美も感じられる
能高越嶺36
能高連峰への鞍部にはススキが一斉に赤穂をつけ、太陽の光を浴び
るとまさに赤銀色のじゅうたんのように見える美しい風景が広がる
。広く穏やかな稜線なので、爽快な漫歩も楽しめる。
能高越嶺38
太陽が雲に隠れて上空の大気が太陽光を散乱して光っている、時の
移りと共に変える陽の光が空の雲に反射し、美しい自然美を見せて
いる。
能高越嶺40a
送電線竣工を記念した蒋介石の筆になる「光被八表」の石碑が鞍部
に屹立している。「光被八表」とは電力の光芒が全島の大地を照ら
すという意味であり
能高越嶺39
石碑の反面は「利群民生」と書かれ、産業は電気技術を活かして高
生産をあげ、、民衆の生活レベルを高め、幸せを迎えるという意味
である
能高越嶺37
名も知らぬ無数の山々が薄明の斜光線に浮かぶ、深い谷を連ね、不
思議に満ちた場所、雄大なその山容は実感をいっそう湧き立たせた。
能高越嶺41
鞍部から下りると道草が顔にびこった樹林帯へと入り、
能高越嶺42
緑の輝く濃い針葉木と広葉木の混交林の道路が延々と続いている。
能高越嶺43
毎年台風の度に能高越嶺古道の東西側は崩壊を繰り返している為
、鉄砲水による土砂崩れで登山者の遭難・死亡事故もよく発生し
、道路も埋また。
能高越嶺44
大規模な土砂崩落の恐怖な現場。大自然の物凄い破壊力に驚く。
能高越嶺47
前進の林道では大きな岩が木をなぎ倒し、崩れてしまった。
連続的な難関が眼前に待っていて、「どうしよかな~またあるか」
と危なくて同じルートを返されるかなぁ~に惑って、、、、
能高越嶺47a
道もなく何もつかまれない崩壊地の難所をで一歩、一歩と進む、、
急峻な斜面を伴い谷底へ落ち込み、大変苦労し難関を克服した
、、Bravo万歳!
能高越嶺45
張りつめた緊張感のなか、残りの力を振り絞り、荒れ道を越えて
樹林の休み場に歩いて来た。
能高越嶺49-0
ヒノキ巨木の緑が生き生きと輝く、大きく深呼吸して森の息吹を
取り込むと先程の緊張と不安など体そして心がゆっくりと癒される
能高越嶺46
山麓に多く清流を育み、透明度が抜群の小さな渓流は、幾つも重な
る段状の岩肌を清流が勢いよく滑り落ち、ひんやりとした水飛沫を
あげる。
能高越嶺49
澄んだ美しい山泉水が木瓜渓へと注ぎ込んでいる。水量が多く、水
面が波打って少し汲み、顔を洗うだけでも気持ちいい~この水を
コーヒーやお茶に入れると、美味しさと香りを全く逃がさない誘惑
であろう
能高越嶺53
能高越嶺古道の沿路に分布する保線所の建物は日本時代の駐在所か
らすっかり改築されてしまったもので、和風を受け継いだ木造建物。
能高越嶺50a
檜林保線所の屋前に広い庭があり、能高山連峰、南華山などの眺望
も格好な場所。
能高越嶺50
山歩きの楽しみは歩いてきた峰々を振り返る時である。能高山がす
でに遠く小さく見える。「よく歩いてきたなあ~」自分の細い足が
いとおしくなってくるときはこんなときである
能高越嶺48
檜林保線所を出て樹木と野草が生い茂り、緑溢れる道が続く、静か
に心を澄まして山の囁きに耳に傾けるの無上の楽しみである
能高越嶺54a
能高越嶺古道の特色は吊り橋が多い。聳え立つ深い山々に囲まれ、
眼下には清澄な渓流が流れ、まさに絶景!
能高越嶺61
揺れを楽しみながら足もとを見れば、きらきらと光る渓流の水面、
自然景観を迎えて美しい景色を眺め、歓楽満点の空中散歩であろう
能高越嶺51
自然は生命の魔法師。無数の高山の樹木は驚くべき精緻な自然の造
形と意匠が見られる
能高越嶺52
山野に育った樹木は自由に枝を伸ばして美しい形を見せてくれる。
枝が互いに競うように天をめざす
能高越嶺58
つづら折急坂を登りきれば、あと2キロ歩いて五甲崩林道の出口。
能高越嶺59
正確な方向を示すトレールのマークに要注意!五甲崩林道に進む
べき方向を表わすサインがヒノキの樹幹に記されている。
能高越嶺60
巨木のそばを通るたびに、逞しい幹に手を触れては「こんにちは!
初めまして」と声をかける、巨木はわたしを見下ろして「初めまし
てよろしく!」と言っているように感じられる。心の温まる一瞬
能高越嶺55
五甲崩山は地形が急峻で台風がもたらした大雨により、山頂から
谷底まで大規模な崩壊地となった。元々の山道を埋めたので、遠
回りする別の道を選ぶ以外、仕方がない
能高越嶺55a
眼下は目も眩むような谷底、千メートル深さある懸崖に立ち、恐
怖感を濃厚に感じられるが、冷や汗たらたら。
能高越嶺56
木瓜渓の沿岸に聳える山谷は台風、豪雨、地震など行なった崩壊
の進行と共に、鬱葱と繁る森林地域が裸地化へと変貌していく
、、、悲しみを感じる
能高越嶺57
豪雨、強風でなぎ倒した樹木。荒涼とした林間に孤独感に湧き上
がた
能高越嶺62
やっと、長い山歩きはここまで終わりになった!花蓮へ登山者を
運ぶトラックもまっていた。帰路で石ころごろごろとした林道を
運転するので、トラックは揺れど押して気分が悪く車酔い、ヒッ
プも痛みになった。
能高越嶺63
奇莱保線所。三階の鉄筋コンクリート建物で、民衆に開放されて
いないが、周辺では目を醒める「有応公」の祠があり、道路工事
や電線点検など色々な事故で非業の死をとげた亡霊を祭る場所。
能高越嶺64
磐石保線所。
能高越嶺64-0
和風の面影を残しつつ、日本情緒をたっぷりと味わう歴史遺構
能高越嶺67
天長トンネルは海抜1360メートルの天長山麓に位置し、長さ
2.2キロの距離があり、洞内では照明なし、狭くて車の行き交う
ことも難しいが、岩壁から流れるチロチロと水音も聞こえる。
能高越嶺71
龍澗発電所。
能高越嶺74
「能高横断道路の殉職者」の慰霊碑を祭る小さな祠は花蓮県吉安郷
の台九丙線にある。
能高越嶺横断道路は大正6年(1917年)9月15日東段の工事が始まり
、大正7年6月30日(1918年)全線44キロ長さ道路が開通した。その
後も建設工事が続けられ、1940年~1945年にかけて西の桐里から東
の銅門までの全線が竣工した。途中で険しい中央山脈を越えなけれ
ばならないので難工事が続き、当時大量な工事費がかかり、厳しい
環境の中に落石や転落事故などが度重なり、労働災害による殉職者
は多くいった。この高さ160㎝、幅74㎝の玄武岩の慰霊碑で、表面に
は、「大正六年九月起工、大正7年正月竣工、初音から奇萊主山まで
十三里あり、工事費四萬二千圓をかかった。警備員:八千五百人。
職工:一萬四千人。人夫:三萬六千人」の文字が刻みこまれ、碑の
裏面には尊い犠牲となられた名前も刻まれている。




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能高越嶺古道の旅1(西段)

能高地圖
能高越嶺古道は西の霧社から、塔羅湾渓に沿いのぼり、南投県と
花蓮県に跨る中央山脈の鞍部に屹立している「光被八表」という
石碑を越えると木瓜(パパイヤ)渓に沿い降り、全行83キロの距
離がある。
能高越嶺01b
昔ながら台湾の東西部を結ぶ最も重要な横断道路の一つである。
清時代には原住民部族間の交易、狩猟、婚姻道など建設された
「開山撫順道」であった。日本統治時代には原住民の抵抗、蜂起
を押さえる「理番道」と「警備道」として整備されており、沿線
上に二十箇所に駐在所が置かれていたそうである。
能高越嶺01c
台湾復帰后、台湾電力会社は戦争で破壊された電力施設を修復し、
それに東部と西部をバランスする電力需要のために、この古道付
近に沿い、電気を運ぶ送電線のルートが整備され、巨大な送電鉄
塔が建てられたが、能高越嶺古道は「電力の萬里長城」という美
称もある。
能高越嶺
2010年8月14日の夜、8時30分ごろに台北から出発し、南投県の霧
社へ進んだ。深夜の1時に到着、遅くなので春陽温泉山荘に泊まっ
て、翌日に霧社を起点とする2泊2日のトレッキングが始まった。
能高越嶺1
朝7時20分って早すぎるかもしれないが、入山管制所の高中派出
所が開いてなかった。申し込み書が扉の間隙に入れてから、屯原
登山口の方向に進んで続いた。
能高越嶺2
山行車道を蜿蜒と走って登山口に到着した。能高越嶺古道の歴史
を語る案内板は道端の並木に置かれているが、数多くの登山者は
足が止まらないままにザックを担いで歩き始めた
能高越嶺3
木陰を越え、崩れているような場があるので慎重に足を運ぶ。
遠方に聳えている峰々のたたずまいがはっきり眺望できる、視野
に飛び込むすべての光景に登山者はずしりと深い感動。
能高越嶺5
終戦後、日本駐台の電力担当者たちが帰国し、「台湾は暗闇の世
界に落ちる」と預言したことがあるがその時に電気工程を専攻す
るわが国の元行政院長孫運璿が全島各地にある工業技術高校の学
生たちを率いて電力施設を修復しながら、新しい電力輸送ルート
を開発していた。
今までも数多くの台湾人民は孫運璿の功績が偲ばれる。
能高越嶺01d
電力需要が西部の大都市部へ集中化し、有効利用及び建設費の低
減を図るため、東部を結ぶ送電ルートを建設する必要に迫られ、
中央山脈を越える巨大な送電鉄塔が建てられて来た
能高越嶺6
道標が頻繁にあって爽やかなトレキンクコース、鳥の声を聞きな
がら、のんびりと散策すると言い。
能高越嶺7
ここからの眺望は素晴らしく、遠くに守城大山と呼ばれる山並みも
確認できる。
能高越嶺8
高い峰々を眺めながら、気ままに自由に風に吹かれて山麓の風景
を楽しむ。見渡す限りの緑せいか、何やらとても落ち着いた気分
になる
能高越嶺9
鬱葱と繁る樹木を覆う吊り橋を渡ってみなければ分からない驚異
の視界がそこにある。あと100メートルほどを歩いて雲海保線所
という休み場に到着、広く開けた場所である。
能高越嶺10
雲海保線所の入口で「山の神」という土地爺を祀っており、登山
者と保線所の従業員など皆の守護神として登山の参詣客で連日賑
わっている。
能高越嶺11
雲海保線所の広場に佇み、遠くの能高山脈は未知の遠方への憧憬
の象徴として人の心に青い影を投げかけているのである、山の彼
方に行って確めてみるまではわからない。
能高越嶺12
今の雲海保線所は元々の尾上駐在所であった。標高は2360メート
ルあり、尾上の名はこの保線所後方にある尾上山(標高2652メー
トル)として残っている。広場にある標高2360㍍を示す石碑は尾
上駐在所であった時の国旗掲揚台を利用したものだと思われてい
るが、石の表面は無数の歳月に刻み込まれている。
能高越嶺13
能高山の清澄な美しさが訪れる人々の心に染みとおり、都会っ子
にとっては未知のもので新鮮な感じが強く、清楚で詩情に満ちて
いる。
能高越嶺14
能高越嶺古道の沿路には大規模な崩壊地(地滑り)が3所あり、
広い面積を延ばした土砂崩れがもの凄い、恐怖感と圧倒感を持っ
て迫って来る、自然の無情な破壊力を見る者に驚かせる。
能高越嶺15
峻険な起伏する広びろとした裸地の斜面は荒涼に満ちた場所で、
歩行の上り下りを苦しめる。
落石事故が多いので、足元と前方に注意、慎重に足を運ぶ。
能高越嶺16
激しい陽光あふれる、陽の光彩を身に惑い、聳立する岩壁や重畳
たる山並みが青の澄んだ空に映えている。
能高越嶺17
森歩きの楽しみは、足元を注意深く観察することである。屯原か
ら五甲崩までの道端には多くのツワブキ(石蕗、艶蕗 中国名:
山菊)が若葉を茂らせている。ツワブキはキク科ツワブキ属の多
年草で、花期は10-11月、葉の間を抜けて花茎を伸ばし、その先
端に散房花序をつけ、直径5cm程度の黄色い花を数輪咲かせる。
日本では津和野町の名前の由来は「石蕗の野」であるという。
能高越嶺18
ヒノキの並木が道端にどっじりと根を張り、地面近くから枝分れし
た幹の太さが長い歳月を感じさせる。
能高越嶺19
小さな川に架けられた木道と橋の施がよく見かける、これには安全
と自然を守る目的もあるから、むやみに道路から外れないようにし
たい
能高越嶺20
炭焼き窯の遺跡。かつて冬になると能高の山間では雪に埋もれ、生
産活動や警備などは著しく制限されたが、山にある豊富な木材を利
用して作る炭は暮らしに必要なものであろう。
今まで見るとおりに苔むして残されているまま…
能高越嶺21
霧の中で風雪によって盆栽のような姿になったツガの並木が悠然と
登山者を迎えている。
能高越嶺22
雲海の密度が濃く、山間に広がった律動感と雄大な景色にはいつも
心酔われる。
能高越嶺23
突然に視界がパッと開け、遠くに天池山荘の小さな姿を見せてくれた。
能高駐在所
天池山荘にある旧能高駐在所の写真。その時は神社もあった。
能高越嶺24ac
現在は天池山荘となり、元々は台湾電力の天池保線所で、山荘前の
広場は休日と言わず、平日も登山者のテントで埋まる賑わう光景が
よく見られる。
能高越嶺25
料理用具が完備、空間も広い台所。天池山荘では予約によって夕食
と朝食が提供されているが、毎日20~30人ボリュームの料理を作る
仕事が楽ではないであろう。
能高越嶺26
食べ放題の「ビュッフェ」として宿泊客に給食、個人の盛る食器で
お好みによって食べる。定番料理なので、あまり美味しさを期待し
ないように….山では食事よりも遊ぶことが本来の目的のはず。
能高越嶺24
天池山荘の宿泊はスリーピングバッグを提供し、自分のザックが寝
室に持ち込み、混雑なので、貴重品などは身につけておく。
込んでいる時は先に着いたからといって威張らず、遅く着いた人に
もできるだけスペースを譲り合おう常例。
能高越嶺27
山荘の西には輝く赤みを残し、夕日が沈んだ。暗闇の帳が降りる直
前、四方八方から冷気を伴った風が吹き渡り、濃紺の天空に変わり
、輝き始まった星の光が地上に降り注ぎ始まる

※つづく 明日

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魚路古道

魚路古道37
◎「魚路古道」は金包里大路とも呼ばれ、金山の漁民が夜中に漁獲を
運ぶために開いた峠越えの一本の山道である。北部海岸の金山から八
煙、擎天崗(嶺頭)を経て陽明山周辺の芝山岩に至る。さらに市内の
士林、大龍峒、大稲埕などに出て市場を作り、漁獲を販売したことか
ら「魚路古道」の名に由来している。
魚路古道21
◎古くから人や物の移動を促してきた陽明山の発展を刻んだ動脈とし
て、一時代を担ってきたこの山道はいま、ひっそりと大自然と同化し
てゆくようで、沿路の史跡および自然景観は変化に富んでいる。先人
のまさに足跡をたどるなかで、開拓者の苦労が偲ばれる。
魚路古道2
◎台北MRTの剣潭駅で15番号のマイクロバスに乗り、30分間ほどをかか
って「菁山小鎮」に降り、林道沿いに歩くと魚路古道の山旅がここか
ら始まる。
魚路古道
◎樹林帯へ進め、灌漑水路の涼やかな音に耳を傾け、木々の陰で夏の
楽章を奏でるせみの鳴りを伴いながら自然との心の会話の旅路を踏締
める
魚路古道1
◎灌漑用水路にひっそりと湧き水が意外なほど冷たく、手と顔を洗う
だけでも気持ちいい。濡れた頬に風が吹き抜けると、とても爽やかな
気分になる。
魚路古道3
◎沿路の道端には草本ならびに低木の「アヒル足シュウカイドウ」が
短い夏を惜しむかのように咲い乱れている
魚路古道4
◎岩壁もチロチロと清涼な山泉水が流れて水の冷たさをこの手で触り
たく、自然の良さが五感を通して心に刻んだ記憶がよみかえる。
魚路古道5
滝の底の渓流は岩石が鉱物の酸化によって褐色を呈し、酸性の水を好
む苔が岩肌を緑色で覆い清涼な美景を作る周辺にひときわ映え、白い
滝、赤い石、緑の林が原始林の秘境を思わせる
魚路古道6
◎魚路古道のトレールは、非常に変化に富んでおり、そこを安全に歩
けるような石造舗装道が施されているが、樹林帯の多いので湿気を好
む苔を緑色で覆い、表面が滑りやすいので注意しよう
魚路古道8
◎絹糸滝は内双溪の上流にあたり、滝の高さは約20mで、水質は酸化
鉄を含みため飲用不可。擎天崗へ向かう途中には絶好な休憩所になっ
ている
魚路古道7
◎絹糸滝を離れて道標沿いに進むと急な階段山道へ入り、峠までの距
離が短いのに少しの苦労を必要とする。
魚路古道11
◎<ヤブレガサウラボシ中国名:雙扇蕨>は台湾での分布域が狭いわ
りには知名度は高い。何となく古代の植物を思わせる外観の通り、そ
の起源は遠く中生代の三畳紀にまで遡る。
今でこそ、この仲間は熱帯アジアに数種が知られるだけだが、当時は
世界中に広く分布していた。放射状に切れ込む葉は、その名の通りキ
ク科のヤブレガサやヤマタイミンガサのそれにそっくりだが、細かく
見ると違う点も多い。最も分かりやすいのは展葉の様子。
ヤブレガサの若い葉は葉身が葉柄に接する部分で折りたたまれている
のだが、ヤブレガサウラボシでは葉身の中央で折りたたまれている。
成葉にはない柔らかい黄緑色が美しい。
魚路古道12
◎<イタビ中国名:牛乳ガジュマル>はイチジクに似た小さい実がな
る。葉や実をちぎると乳のような樹液が出る
魚路古道13
谷間の山道の周囲は密林から眼前に鮮やかな緑一面の草原に変わる、
孤独な黒松が「お疲れ様!」を呼び掛けるように旅人を迎えている。
※日本統治時代には陽明山が国立公園候補地に指定され、数多くの
黒松やスギやサクラ及びツツジなどを植えていたが、十数年前、針
葉類の松とスギなどが虫害でドンドン枯れはじめ、松とスギを枯死
させる害虫は、天牛科、象鼻虫科、甲虫類のものだという。今まで
数少なく昔のままの姿で残っている。
魚路古道14
◎視界がパッと開け、草原からの展望は何の遮もなく、晴れていれ
ば七星山、竹篙山、七股山、磺嘴山などが指呼できる。陽明山国立
公園の最高山<七星山>が雲のかかった雄大なその山容は実感をい
っそう湧き立たせる
魚路古道15
「擎天崗」の環状歩道は、砂利や小石が敷き詰められ、明るい草原
状の広がりを見せる大らかで歩きやすい。
魚路古道19
◎擎天崗草原は約24万年前後、七星山が噴火し、大量なマグマ熔岩
の流出によって形成された台地である。地勢は平坦で、四周の山は
いずれも800メートル以上。数キロメートルに渡って起伏の広大な草
原が広がる大展望を楽しめ、見渡す限りの優美な風景で、何やらと
ても落ち着いた気分をさせられる。緑の草原では牛が放牧され、台
北市農会が経営する牧場となっている。
魚路古道18
◎初頭の原型をそのままに再現、当時の雰囲気を映した華やかな装
飾がなし、懐かしさを漂う小さな祠は歴史への旅路に誘っている
魚路古道18a
◎漁獲を肩で担って歩く漁民たちが峠の難関を越えて眼前の「嶺頭喦」
というこの祠にやってきた時に、交通安全と商売繁昌などの祈願を土
地神に伝達し、暗誦することが慣例そうであった。いまは、擎天崗草
原へ遊びに来る多くの行楽客で賑わっている
魚路古道20
◎<ノボタン>は野生の牡丹のように美しいので名づけられた。
高さ 1 ~3mになる常緑低木で、紫紺色の大輪花を夏から秋にかけ
て咲かせる。若い枝や葉に軟毛があり、越冬温度は3℃と比較的寒
さに強く、暖地では、庭植えで鑑賞でる。小笠原諸島から台湾、中
国南部、インドシナ半島、フィリピンに広く分布する。
魚路古道22
◎「百二坎バイーアッウカン」という急階段に登った「金包里大路」
の城門を出た向かい側の草原が擎天崗で、昔魚を運ぶ漁民たちが金
山と台北を往来する中継地の役割をもつ、台北市内も鳥瞰できる。
1895年前後、ここも抗日義軍の「簡大獅」が建てた根処地で、台湾に
駐在する日本軍に包囲され、滅亡した。
魚路古道23
◎伏流水が自然に集まる山間には名前のない湧き水を数えたらキリが
ないという。太陽がキラキラと照り輝く伏流水が無色透明なはずの水
なのに、覗きこんでいると爽快な気分を味わう。
魚路古道16
◎「百二坎」と書いて「バイーアッウカン」と読ませる。名の由来に
ついては二百個の急階段があるという説で、名を冠した。
道路工事は付近の安山岩を掘割り、主な石を一つずつ円盤形に加工し
て組み合わせて敷かれた。
魚路古道24
◎涼やかな風が吹き抜ける「百二坎」を歩きながら、目の前に広がる
大パノラマ峨々たる巨岩は、「火山角礫岩」の獅子岩である。
魚路古道25
◎台湾の気候の特徴は午後の雷雨で、「石工事場」という雨よけ所に
着いたら、空が急に暗くなった思う間もなく大粒の雨が降っていた。
魚路古道28
◎「憨丙厝地ゴンビァツウディ」田舎旧跡
かつて魚路古道周辺に住む住民の生活を再現するため、陽明山国立公
園が建てられた「憨丙厝地」は素朴な石造建物に当時のご主人の日常
生活が偲ばれるが、鬱蒼と生い茂った野草に埋もれており、廃墟特有
のわびしい雰囲気が周囲に包み込んでいる。
魚路古道29
両岸に濃い樹林でおおって深山の渓谷を跨る許顔橋は1896年に築造さ
れたのである。
金山境内にある阿里バンの茶農-許顔は魚路古道を往来する人々が上
磺渓の支流を渡る不便な苦境を見たが、寄付で橋を造ることにした。
それから、この石造橋を歩く皆が「許顔橋」と呼び、名付けられた。
魚路古道26
◎台湾では山、町、田んぼなどに安置された「土地神」が邪気を抜い
、災難を取り去り、平安をもたらすものとされる。この赤レンカ造の
小さな祠は山の土地神を祀っており、道端において山歩きの人々の守
護神とされている。旧暦の毎月二日、十六日には信仰者が感謝のため
、線香、紙金と供物を供え、参詣しに来る。
魚路古道30
◎木造橋で荒れ滝を渡ると雷雨の増水で岩壁に挟まれた2mほどの谷底
を瑠璃色の激流が泡を立てて流れている
魚路古道31
◎どんぐりの鈍色の岩肌を清流が勢いよく滑り落ち、水がキラキラと輝
きながらひんやりとした水飛沫をあげる
魚路古道32
◎雨が降れば、森の樹木は雨水をしっかり蓄えて清らかな水を川に流し
込んで行く、河川水を蓄えるため灌漑用水路を作った「八煙用水路」は
、付近の各耕地に配分するが、この水は、飲料水等の生活用水にも使用
されている。
魚路古道34
岩石を等間隔に並べた階段路を下り、慎重に足を運ぶ、下山の途に油断
はできない。2001年、元総統陳水扁はここの階段で滑り、けがしたとい
う意外な事故がある
魚路古道35
金山郷の八煙を起点として台北に渡る「魚路古道」は戦争中にある「闇
歩く(漁獲密輸)」という行動が盛んでいたそうである。日本殖民政府
の統制物資がほぼ底を突き、物価統制令下での配給制度が麻痺状態に陥
り形骸化していた。都市部に居住する人々が欲する食糧や物資は圧倒的
に不足していた。闇市では法外に高い価格で物品や食糧が取引きされた。
庶民はどうしても必要なものはそこで手に入れるしかなく、品物は飛ぶ
ように売れた。
魚路古道36
上磺渓(スアンファンシ)駐車場では、きれいな鉄筋コングリードお手
洗いが整備されており、多くの山歩きの人々はここを起点或いは終点と
して魚路古道を巡る。百メートル徒歩すると陽金道路に出て、バス停が
見える
魚路古道38
◎自由気ままな古道の旅行がこの皇家バス停に終わりになるが、台北へ
帰るバスでは切符の販売なんかしていないので、小銭をご用意ください。
魚路古道39
◎群を抜く水の美しさを持つ下磺渓は、深山に発する混じり気のない清
流、限りなく透明な青は自然が創る宝石の色。
魚路古道40
◎火山地形を主役とする陽明山国立公園は後火山作用によって形成した
温泉に恵まれ、一面灰白色の荒涼とした露岩層が随所に見かけられる。
それは「熱水変質作用」と呼ばれ、温泉や噴気孔の近くで、岩石が熱水
変質作用をうけると粘土化が進み、亜硫酸ガスなどを含む酸性水によっ
て岩石中のアルカリ、鉄などがとけでて発見される。

題目:台灣本地遊 - 部落格分类:旅行觀光

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